2000年3月 のアーカイブ

そこにあるのも希望じゃねえ。

2000年3月31日 金曜日

(註:この頃、日記そのもののタイトルが「killing time」というものでした。「暇つぶし」という意味です。)

おれが書いてるのは日記じゃねえ。
そのまんまだが「殺しの時間」だ。
伝えたいのはメッセージだが載せたいのは日記じゃねえ。
むしろ絵画だったり、音楽だ。
毎日書いてるのはそう、日記じゃねえんだ。
「殺しの時間」という表題のオーケストラ、それぞれの楽章なんだ。
だからってやりたいのはクラシックじゃねえ。
なんだってそうさ、わかりやすい、ロックだ、パンクだ。
「ノーパンク、ノーライフ」なんて受け売りをやりたいわけじゃねえが大正解、その通りだ。
かくしてそう、名の知れたロック・スターたちはおれの代弁者だ。
彼らもおれも自分の思うようにやってるだけだ。
かといってみんなになぜか伝わるんだ。
それは結局、誰もがおんなじことを考えてる、いや、考えてることに大差はない、ってことさ。
そうさ、それに気付いて書いてるんだ、おれ。
誰もがそう、「一般」の中に棲んでいる。
「平凡」の檻の中にいる。
かといってその折から抜け出す方法はねえ。
なにせ「一般・平凡」の檻は他でもない、おれたち自身だからだ。
そうおれは平凡だ、おまえも、そこの!おい、おまえもだ。
結局のところ誰も知らないふりをするが「一般・平凡」ってのはおれら全体の集合、いやホントに集めただけなんだ。
だから特別なんてやつはいねえ。
結局ロック・スターが圧縮したモノを、おれは細切れにしてるだけだ。
そうだから結局、そうさ、だれも同じなんだよ。
そうさだからおれがやりたい「殺し」は平凡とかそういうのにとらわれていつまでもグダグダ言ってるおまえらなんだよ。
いまいったように結局平凡なんてたいしたことじゃねえ、それどころかそんな概念は存在しねえ。
だれもがそれぞれの「個性」なあんていう、特別を信じることさ。
いや、そういうふうにできている。
なんだって、こんなにほじくり返す意味なんてねえ。
それどころかおまえがやってるそんなこと、そう、この文章を読むってコトさ、そこには何の意味もねえ。
だがおれがやりたいのはいくらでもあるアタマの使い道に、たくさんの可能性を与えてやる、それだけさ。
机の前で下向いてやるのは勉強?そんなんじゃねえ、ただのオナニーさ。
だからってバカにしてるわけじゃねえ。
おれはそんなコトさえできなかったさ。
いや、意味がないなんていうばかげた理由で今まさに捨てようとしているさ、だがそんなことに意味はねえ。
だがもう一度言う、やってても意味はねえ。
あるのは60%くらいの確率の「ラク」な生活と、歪んだ満足感さ。
だからおれがやりたい「音楽」ってのはヘボい人生応援歌じゃねえ。
やらねえ。やりたくねえ。
必要に迫られるからやる、むしろそればっかりだ。
だがおれはそれを悪いとは思わねえ、だからといっていいとも思わねえ。
だってモノゴトをやるのにはそれしか理由はねえ。
勝手なことをやるのもいい、だがそれだけ必要なものが多くなる、動きが増える。
疲れてしまうだけだ、わかるな、これ読んでるやつだからな、ナァ、疲れたろ?
すでにおれが何を言いたいかなんてわかんねーだろ?
だからっておれは自己完結したいんじゃねえ。
ここに残すこと、それはおれが決めたと同時に、必要なことなんだ。
お前らには必要ないかもしれねえ、でもそれなら見なければいい。
おれはこの先にすばらしい未来があると信じて疑わねえ。
だから必要なことをやってる、これを書いてる。
そうさ結局理由なんてねえ、おれに理由なんてねえ。
なんのことはない、おまえらと同じことを考えてる、そう平凡さ。
だから特別だ。これを知ってるかどうかが、大事だ。
きっとそうだ。
お前らしっかり聞け、おれが言いたいのは。
結局そういうことだ。
雑踏の中で、おれの口が、そう言った。
何も特別なことじゃない、おまえらが思うようなことと、同じだ。
ただおれはそれを書いていくだけ、そう何も特別なことじゃない。
おれのやってることはロック・スターとそうかわらねえ。
また、お前らともかわらねえ。
ロック・スターも、おれも、おまえらも特別じゃねえ。
だけどやるかやらないかだけだ、やりたいならやればいい。
おれはやる、ただ、それだけだ。
何も特別なことじゃない。

限りなく

2000年3月20日 月曜日

「世界」ってどこからどこまでだろう?
どんな小さなものまでも、入るんだろうか?
原子?電子?アレにだって体積はあるだろ?
限りなくゼロに近いとしても。
だってそうだろ?
その集まりで体積が生まれるわけで。
じゃあ、それを構成する物質があるわけでしょ?
だって体積ってモノの集まりだろ?
どこまでも、限りなく、小さく。

どこまで大きなものが作れるんだろう?
その、限りなく小さな物質で。
地球?宇宙?宇宙の外ってあるのか?
だって広がり続けてるって言ってたよ?
ビッグバンで、できたって言ってたよ?
誰だか知らないけどさ。
だったら、その外の世界があるわけでしょ?
限りなく、広大な、外の世界が。

「世界」って、そこまで行くんだよ。
どこまでも、「全部」なんだよ。
限りなく小さいものから限りなく大きいところまで。

その中に、ぼくら生きてる。
限りなく、長い時間の中に。
限りなく、短い時間で。
限りなく、無駄に見えるけど。
限りなく、一生懸命。

限りなく、短い、そして小さい、ぼく。
かなり、しあわせなのかも知れない。

チキン

2000年3月15日 水曜日

いつも何かにおびえて生きてる。
隣の酒くさいオヤジ斜め向かいの東洋系の外国人横のあざのあるニーチャン。
昨日の夢。
今日の希望。
死なないため、少しでも永らえるため。

紙一重のしあわせってわかるだろ?
アレを放棄することさ。
やっと生きているという喜びよりも死なない喜び。
苦労のすえ勝ち取ったしあわせより苦労をしなかったというしあわせ。

しあわせは妥協にある。
勝たなくていい、負けないようにがんばるんだ。
下手に動くな。
クールにモノを見ろ。

バーカ
本当は、熱いんだろ?
ガマンしてるだけなんだろ?
だったら動き出せよ、眠れる獅子。
ウサギを追うのに全力出せよ。
死ぬまで追えよ。今日、生きる意味を。

そこで止まるなよ。
生きるために、死ぬ覚悟をしろよ。
死なないことが生きてることじゃねえ。
生きて見せろよ。
キラキラな。

(註:この時期の自分をよく表していると思います。恥ずかしいけど、あっぱれです。)

穴のあいた地球儀

2000年3月14日 火曜日

中国の有名な古事に、

 「自分は蝶になった夢を見た。もしかしたら自分は、蝶の見ている夢なのかもしれない。」

というのがある。
もしかしたらそれもおかしな考えではないのかもしれない。

人間は世界を「見」て、それをもとに自分の頭の中にそのミニチュアを作る。
それを「認識」という。
たとえばぼくがとなりのあの子としゃべってみても、
それは、ぼくの頭の中にあるあの子のミニチュアにしゃべりかけているに過ぎない、ということだ。
そしてその子の返答さえ、その子の頭の中にいるぼくのミニチュアに返答しているだけなのだ。
そしてふたりとも、会話した「つもり」になっているわけで、まァそれで困ることなど大してない。

それはこの世界の「ルール」についても同様で、それをもとに(本当に基本として)ぼくらはこの世界を歩き回っている。
ところが夢の中では、その「ルール」がおかしくなることが多々ある。
たとえば、空を飛んだりお花畑があったり死んだ人がいたりスローモーションで落ちたり。
これは夢の中での「世界」を頭の中で作ったからではないのか。
現実の世界をマネをして、新しい、一晩限りの「世界」を作っているんじゃないのか。

そして、この現実の「世界」も同じようにして作られたものではないのか。
誰かの頭の中(そうもしくは「本当の」自分)で作られているんじゃないか。
そう、ぼくも君もあの子も彼もあいつも。

さもなければ、この限りなく美しい世界は、神が創ったとしかいいようがない。
いや、その創ったヤツが神なのか。
神の夢の中で蠢くぼくら。

夢が覚めないのを祈ってる。

(註:割とありがちなこのSF的世界観は、鈴木光司「ループ」を読んでのことだと思います。でも、この世界観、いまだに好きです。)

変化の術

2000年3月13日 月曜日

何にせよ、ぼくは変わっていくしかない。
流れていく時の中で。
その時々に合わせて、正しく、変わっていかなくてはならない。
しかも変わるのは自分の意志である。
ともすると悪いほうへ進んでしまうのを、しっかりと、監視しなければならない。
そして、導いてやらねばならない。

ぼくの信念。
これに背くような行動をしてはならない。
ぼくはぼくに対して正義を貫き通さなくてはならない。
またそれは社会に対しても。

何にせよ、ぼくは変わっていくしかない。
変わっていく社会の中で。
社会は個の抽象だ。
まさに、社会に背くことは個に背くこと。

ぼくは疑う。
その社会は本当に正しいのか。
間違っているなら変えられるだけの、力がなければならない。
そして力を正しく使うための良心を、もってなければならない。

ぼくは変えていかなければならない。
ぼくを、そして、世界を。
誰にでも、ひとりひとりにそれは、与えられた使命だ。

のらりくらり

2000年3月12日 日曜日

やることがないのは、とてもすばらしいことだ。
必要に迫られることなく、本能に従うことなく。
ただただ、ゆらゆらと風に揺られていさえすればいい。
こんなときは日ごろ使いすぎた理性を休ませる。
そして感性をリラックスさせる。

音楽を聴くもよし。
絵を鑑賞するもよし。
はたまた空を見るのもいい。

でも歌詞を読んでしまう。
説明を読んでしまう。
「オゾンの色さ」なんて説明をつけてしまう。
どうしようもないさ。
それが必要な世界だから。
そうやって生まれてきたから。
それしかやることがないから。

そうぼくなんてそんなもんだ。
それしかやることがないんだ。
情けなくなんかないさ。
だってそれが「いい子」だし、
できない大人は「クビ」だし、
むしろ誇るべきことなんだ。

下を向いて、虚ろな目で。

大切なもの―なんだそりゃ。

2000年3月8日 水曜日

人はみな
小さな器をもって生まれてくる
だがけして
その器は満たされることはない
どこかしこに
ヒビが入っているから
少しづつ
こぼれていくんだ
そのために
急にたくさんのものを入れても

割れてしまうだけなんだ。

おれにできること。

(註:この文章はAKIRAに影響を受けています。)

妥協なんだなァ

2000年3月7日 火曜日

音楽ってのは、人間が生きていくうちで衣食住の次に絶対必要なもののひとつなんだそうです。
もうふたつは、酒と、?なんだっけか?
まァ、音楽は大事なんですと。
そんで、高い声には癒しの効果があるとか、超音波がイイだとか、おまえはオバさんか!
みたいなことを研究してるみたいです。ええ、えらーい人たちが。

どちらにせよ音楽がいつ生まれたかは定かではないんです。
でもまともな楽器もないころからあったことは容易に想像できますね…
ジプシーなんかは普通にしゃべるときも歌うしね(偏見だ)

うう。
そこで、カッコイイんですな。音楽は。
そう、誰もが聞くだけでなく、やりたいんです。きっと。
そんでみんな大好きなんです。ハズなんです。
細かいことわかんなくたって、歌えるんです、楽器ひけるんです。
はずかしくないです。
ヘタでも負い目を感じることなんてないんです。

カラオケでも、いーカァ。この際。
(ぼくは歌うことしかできないし、あ、ぎたーちょっと)

妥協する自分に、嫌悪。

(註:このころ妥協しなければ、と今では思う、かもしれません。)

無題

2000年3月4日 土曜日

合計5時間でできるようなことを1日を使ってやる。
もったいない気がすると同時に、余計に疲れる。
日々、スローモーション。
やりたいこともできず、渋々やれば。
どうしても割り切れない自分。
絶対に変われない。

時間は進む。
ぼくは眠る。
そのまま「進ん」で、死のうか?
自分のことがわかってくるから、つらくなるんだよね。
ヘボイ感受性を刺激する絵や、音楽や、マンガや、友達や…
どうしようもなく、むしろみずから望んだかのように。

カオス。
世界は「混沌」から「作られ」た?
否。
「無」から「発生」した?
どーせわからない。
いや、わかったからなんなんだ?
堂々巡りの行き止まりだらけ。
これで迷路なのかよ。
もっとカンタンにしておくれ…

どちらにせよ生殖のために、いや、死ぬために、
きょうもいくのさ、”No dream boy”。
ある意味、無限の可能性。
はたまたイカれたバカ騒ぎ。
もう動かないの?これ。
命も買い換えましょう。