中国の有名な古事に、
「自分は蝶になった夢を見た。もしかしたら自分は、蝶の見ている夢なのかもしれない。」
というのがある。
もしかしたらそれもおかしな考えではないのかもしれない。
人間は世界を「見」て、それをもとに自分の頭の中にそのミニチュアを作る。
それを「認識」という。
たとえばぼくがとなりのあの子としゃべってみても、
それは、ぼくの頭の中にあるあの子のミニチュアにしゃべりかけているに過ぎない、ということだ。
そしてその子の返答さえ、その子の頭の中にいるぼくのミニチュアに返答しているだけなのだ。
そしてふたりとも、会話した「つもり」になっているわけで、まァそれで困ることなど大してない。
それはこの世界の「ルール」についても同様で、それをもとに(本当に基本として)ぼくらはこの世界を歩き回っている。
ところが夢の中では、その「ルール」がおかしくなることが多々ある。
たとえば、空を飛んだりお花畑があったり死んだ人がいたりスローモーションで落ちたり。
これは夢の中での「世界」を頭の中で作ったからではないのか。
現実の世界をマネをして、新しい、一晩限りの「世界」を作っているんじゃないのか。
そして、この現実の「世界」も同じようにして作られたものではないのか。
誰かの頭の中(そうもしくは「本当の」自分)で作られているんじゃないか。
そう、ぼくも君もあの子も彼もあいつも。
さもなければ、この限りなく美しい世界は、神が創ったとしかいいようがない。
いや、その創ったヤツが神なのか。
神の夢の中で蠢くぼくら。
夢が覚めないのを祈ってる。
(註:割とありがちなこのSF的世界観は、鈴木光司「ループ」を読んでのことだと思います。でも、この世界観、いまだに好きです。)