そいつは気が付いた時には既にひとりだった。
ただ生きていく方法は知っていた。
ゴミ箱を漁り腹を満たした。
しばらく野良猫のような生活を送った。
そいつは自分が人間であることを知っていた。
自分の名前は知らないまでも。
言葉をよく知っていたし、思考力は人並み以上だったはずだ。
ところがそれを使う必要性は全く生まれなかった。
そいつは「生きる」という言葉は知らなかった。
その概念について一度も触れることはなかった。
ただ、じっとしていられなくなった。
何もすることがないので歩くことにした。
そいつは歩きつづけた。
フラフラと歩きつづけた。
二度と元の場所へ戻ることは無かった。
そこはかなり安全だったのだが。
そいつはまた「死ぬ」という言葉も知らなかった。
危険になろうが恐いものはなかった。
存在している理由もなければ、存在しつづける理由もなかった。
どちらにせよ、その理由は必要とされなかった。
そいつはなお歩きつづけた。
腹が減っては何かを食った。
眠くなったらそこで寝た。
歩きつづけるしかすることは無かった。
そいつは自分の欲求の理由を考えなかった。
そういうものだと思っていた。
そのまま、歩きつづけた。
もはや、歩くことは食うことや眠ることよりも価値をもっていた。
そいつはやがて海にたどり着いた。
それが海だと知っていた。
先に進むことができないので海沿いに歩いた。
道はどこまでも続いていた。
そいつは記憶喪失だったのかもしれない。
だが何も思い出す必要は無かった。
ただただ歩きつづけた。
もはや何も食べてはいないし、眠ってもいない。
そいつは歩いている間だけは思考を止めることができた。
まるで記憶の復活を拒否するかのようだった。
やがて思考は全く止まった。
それでよかったのかもしれない。
そいつは自分が何者か問うことは無かったし、
他に何も求めなかった。
生きるとも死ぬとも無くずっと、
青っぽいフィルターがかかったような風景を見ていた。
そいつは常に新しい、
昨日とは違う風景が見たかったのかもしれない。
そのうちその青色は、
そいつをやさしく包み込んだ。
そいつはどんなふうに進んでも周りが青いので、
足の向くままにでたらめに歩いた。
そして結局いつまでも、
フラフラと歩きつづけた。